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Relight Committee第9回:社会彫刻家を目指して

2016年夏、それぞれの思いを抱えたメンバーが集まり、Relight Committee2016が開講された。Relight Committee(以下、RC)は2015年にスタートし、今回で2年目を迎える。

市民大学としての「社会彫刻家の輩出」という新たなテーマ、その言葉に導かれたメンバー7名が加わった。ともに2017年3月11日から13日に開催されたRelight Daysを一つのゴールに走り出した日々。

3月18日に私達は最終回を迎え、一人ひとりが「私は社会彫刻家である」というカードを授与された。果たして目指す社会彫刻家に近づくことができたのか。

思い返せば、それぞれに他者を通して自分自身と向き合う日々であったと思う。ユニークな他己紹介で始まる初回。思わず白熱した思い出深い回。そしてこれまでの集大成としての最終回。決して馴れ合いではない、適度な緊張感がある環境、毎回の授業が今の自分達の呼吸を反映した展開を見せていた。

2017年春、私達のこれまでの学びを一人ひとりの言葉で綴ってみたい。

新しい世界で、欲望の死に挑む(松葉有香)

私にとっての「社会彫刻家」とは、「社会に、人の心に、新たな風を刻み込む者」だ。

しかし、今だからこそ自分の定義を語れるが、最初から私の中にあった訳ではない。

普段エンジニアとして働く私が、異なる世界に足を踏み入れたいために参加したRC。だが、私はそもそも社会彫刻家という言葉やアートについてほとんど無知であった。「アート=絵画」という短絡的な理解ではないが、では実際何なのかと聞かれると分からなかった。

そこから一歩進めたのが、第2回の座学で『Touch Sanitation Show』(Mierle Laderman Ukeles,1984)を紹介された時だ。「そうか、アートとは見て楽しむだけではなく、見る人の考え方にまで作用するものなのだ」と。まだアートの片鱗しか理解していないかもしれないが、それでも私の中の「アート」が広がった瞬間だった。

そして最も衝撃的だったのは、各自のActionについて議論する月例報告会だ。そこで重要だったのは、主語が自分であることだった。金銭を支払う人=ターゲットを重要視するビジネスとは異なり、RCでは「何故自分がやりたいのか」を重要視していた。だからこそRCという場での議論は熱く、そして深い。中には自分をさらけ出せずに悩む人もいたが、それは逆に言えば、ここまで個を引き出せる場が世の中には少ないということなのだろうと感じた。

私にとってRCとは、そんな新しい世界を与えてくれた場である。正直、このRCの募集概要は不可解なもので、社会彫刻家を育成すると言われても、そもそも社会彫刻家が何なのか分からなかった。でも、その扉を無知なまま強引にでも開いてみて正解だったと、ここにきて深く思う。

そんなRCを通じて生まれた私のAction『欲望の生と死』とは、「過去に抱いた欲望と一つひとつ向き合ったら、もっと人生が楽しくなるのではないか?」という問いから生まれたものだった。しかし、これを実行するにあたって他人を巻き込むことは必須条件であった。というのも、私の欲望は他人の欲望を蘇らせて前に進めることだったからだ。

そのために私はワクワクシートを作成し、それを使うことによってたくさんの人に「ワクワク=欲望の種」を思い出してもらうワークショップを行った。

だが、これは私自身のエゴかもしれない。私一人のポジティブ思考のために、仕方なく巻き込まれているだけではないだろうか。そんな考えが何度もよぎった。しかし、少なくともRCという20名ほどの賛同者がいた。マジョリティがどう思うかは未だ分からないが、その答えはきっと今後も続けていくことで分かってくるだろう。

私は、このActionを始めるきっかけ=勇気を、RCでもらえてよかったと感じている。

私は社会彫刻家になれたのだろうか。その答えは分からない。誰が決めるものなのかも、その定義が何なのかも。だが私は自分なりの解釈のもと、自分の存在を社会に刻み込むためにこれからも活動していく。そう志している限りきっと私は社会彫刻家なのだろうと、多少見栄を張ってもいいではないかと、私のポジティブ思考は語る。

松葉有香Action『欲望の生と死

『傍観者』という私(高木萌子)

私にとっての「社会彫刻家」とは「自分の思考があり、誰がなんと言おうと行動を起こしてしまう人」である。

RCに参加したきっかけは、大学の時の友人の勧めだった。何か新しいことを始めたいと思っていた私は「社会彫刻家」という言葉をウィキペディアで調べて、エントリーシートを書き始めた。

RCの初回、エンジニアから学童保育の先生など、様々な社会的背景を持つメンバーと顔合わせし、久しぶりに緊張感を感じたことを覚えている。そこから全9回の講義で「アート・生と死・自分」と向き合う一年が始まった。

vol.1 RCで飛び交う意見や内容、知識、全てが新鮮だった。それだけ、自分が今までアートについて考える機会がなかったことを痛感した一日となった。

vol.2 「江原先生」の活動について話を伺い、社会彫刻家について議論する時間だった。この日、先生から学んだ社会彫刻家像とは「自分に与えられた環境で、周りを巻き込みながら活動を起こせる人物」だった。アートの力に魅せられた江原先生は、小学校の先生という立場で、それを子供たちに伝える授業を行っているのだと理解した。

この1年を通じて、江原先生を知れば知るほど、先生のアートが好きだという思考を知ることができた。先生は、その考えを教師という立場を生かして、子ども達に伝えようと行動している社会彫刻家なのだと改めて認識することができた。

vol.3 六本木のまちを歩きながら、自分がアート的だと思う風景をInstagramで撮影する。この時、私は自分の感じるものが何かさえわからないと感じた違和感が残った。

vol.4 Relight Project、そしてRCのきっかけでもある宮島達男さんの作品『Counter Void』のテーマ「生と死」をもとに企画を発表する。普段から仕事で、遺贈寄付という死を意識する現場にいるからか、自分の思考というよりは、自分の仕事にひっぱられた提案となってしまった。実際に、私の主体性が見えないというフィードバックをもらった。

vol.7「生と死の間の人生のストーリー 『感動を伝える』ことで未来をつなぐ」という提案をしたが、ここでも自分が主体とならない提案になっていた。どうして自分のない提案になるのか、私自身も理由がわからないままだった。

vol.8 3回目の提案でも成長なく、主体性のない提案をしている自分がいた。再度見直しをするよう、メンバーからも厳しいコメントももらった。そのコメントを受けて、ありがたいと思いたい気持ちと同時に、自分の中で納得のいかない気持ち悪さがあった。「アートに正解があるの?自分の企画なのに、主体性がないってどういうこと?社会彫刻家の定義が明確でないのに、なんで自分の企画がだめなのか、理解ができない。生と死というテーマは、社会彫刻家と関係があるの?」と自問自答の日々が続いた。

そんなことをメンバーに相談したり、実際に自分の興味がある教育現場にも足を運びながら、一生懸命自分の直感を探した。しかし、どれもしっくりこない。今やりたいと心から思えるActionがないのが今の私の現状だった。

自分の思考がないとわかったとき、自分が社会の中にいる『傍観者』だと気がついたのだ。RCでのクラスを通じて自分を知ることができたことは、本当に宝物だと思っている。これから自分の直感や思考を鍛え、主体的に行動できる自分になりたいと思う。

高木萌子Action「『傍観者』という私

現実世界で、非現実世界の体験の場を創る社会彫刻家(江崎日淑)

私にとっての「社会彫刻家」とは、「経験から産まれた社会に対する問いを持ち、その問いをピュアに考える空間・空気を創り出す人」である。そして、彼・彼女らによって創られた空間・空気は、現実の世界に存在するが非現実的な空間・空気を持っていることだ。

授業で取り上げてもらった『Fluids』(Allan Kaprow,1967) という氷のブロックを積む作品。何か不思議な魅力があり、私は引き込まれていった。

どんなに頑張ってブロックを積み上げても、いつかは溶けてしまう氷のブロックをみんなで積み上げていく。現実世界ではブロックを積み上げているが、その光景は日常で起こりえない非現実の空間・空気とも言える。その非現実を匂わす作品を知り、様々な問いが浮かんできた。

「物理的に形に残らないことをやるモチベーションはどこから来るのだろう?物理的に形にならないことは、果たして何も残らないことに繋がるのであろうか?目に見えない価値がそこにあるのだろうか?」

そんな問いの答えを探しに、いつの間にか今までの経験を振り返っていた。そこで思い浮かんだのは、中学校時代のソフトテニス部でのボール拾いだ。先輩のプレーを見ながら、とにかくボールをみんなで拾い、カゴに入れる。最初は自由に拾うが、だんだん一緒に拾っている仲間と頭を働かせて最適な方法を考え始める。その過程から仲間意識が生まれたり知恵を共有し合ったりするなど、形には残っていないが心の中にその体験が刻まれていた。

Allan Kaprowさんの伝えたかったこととは違うかもしれない。でも私はこの作品から、誰かと時を共にする体験から心に刻まれるものが生まれ、そしてそれは見えないものであるが欠かせないものであることを感じたのだ。

このように、RCの授業で様々な作品を紹介してもらい、アートとはどのようなものであり、どのように見ていくのかの一例を教わった。そしていよいよ「生と死」についての私自身のActionの課題が出された。

私は、ビジネスの世界でぶち当たった問いと、その先で行き着いた方法をパフォーマンスアートで表現する試みを行った。

そのActionは『MOYA TO CHARA(もやとぅーちゃら)』と名付けた。ビジネスマンのモヤモヤを禅の力で吹き飛ばす5分間のパフォーマンスアートである。このActionには、出会った人と私との間にできる体験が、いつか何かムーブメントを生み出すものになってほしいという想いを込めた。

今思うとここでパフォーマンスアートを選んだのは、Allan Kaprowさんのような形にはならないけど心に刻まれる作品の影響を受けたのかもしれない。あえて5分間という制限を設けたのは、現実と非現実の境界をはっきりさせ、自分を振り返る時間に集中して欲しかったからである。

そして本番。私は20名前後の方に『MOYA TO CHARA』を体験してもらった。やってみると、5分間という時間は長く感じられた。この短い時間から、その人の人間性や人生観が見え隠れする。モヤモヤはネガティブなイメージがあったが、実はモヤモヤが強い人は、とても前のめりな人でもあることに気がついた。また『MOYA TO CHARA』を行うことで、私自身が自然と心穏やかになった。

「今、夢中になっていることを実現できる職種にキャリアチェンジをしたいと考えている中で、『MOYA TO CHARA』は私に前に進む勇気をくれた。ありがとう」

イタリア人の彼女は、そんなメッセージをくれた。非現実の空間が、現実の世界を豊かにしていく。このメッセージをもらった時、私は『MOYA TO CHARA』を続けていこうと決心した。まだ試行錯誤中の『MOYA TO CHARA』。いろんな人と関わりながら、『MOYA TO CHARA』をより伝わりやすい形に彫刻していこうと思う。

Relight Projectと出会い、そしてそこに集まるメンバーと触れ合い、時間を共にしたことが大きな学びであった。加えて、自分自身でアートを創り出し、実践するプロセスは、よりアートを理解する糧となった。パーフェクトには程遠い作品かもしれないが、『MOYA TO CHARA』を創り出し、実践したことにより得られたものは大きかった。

これからも社会彫刻家として社会に対して問いを持てる人間でありたいと思う。

江崎日淑Action『MOYA TO CHARA

チャーミングに生きる(関恵理子)

私にとっての「社会彫刻家」とは「自分の軸があり、それに基づいて行動できる人」である。

RCに入る前、私はアートに飢えていた。なぜなら、私の周りからアートの気配が消えていたからだ。慌ててネットを検索して、アートの中に入っていける何かを探した。そこで見つけたのがRCだった。

「アートプロジェクト」「市民大学」「社会彫刻家」というキーワードが胸を刺した。何をする場所なのかよく分からなかったけど、ピンと来た。「ここ行ってみたいかも」。

私は絵を描いたり、何かを作ったりするのが得意ではない。だから、そういう技術を教える学校には向いていない。私はアート的態度を身につけたいと思っていた。イメージとしては、自分の考えがきちんとあって、それを表現できること。そうゆう態度を身につけたいと思ってRCに参加した。

最初は座学中心でスタートした。休日の朝早くから通うのはちょっとしんどかったけれども、新しいアートを知る喜びが勝った。社会に対して一石を投じるような、自分の足元がぐらつくようなアートが絶妙に差し出され、ちょうどNPO法人で働き始めた私には「お前はそれでいいのか」といつも問われていた気がした。

回が進むにつれ、自分のActionを企画することになる。アートなんてやったことがないし、何を足掛かりにしていいのかも分からない。分からないなりに借り物のような企画を発表すると、私が無意識に発していた「生きるのがめんどくさい」という言葉に、菊池さんが反応してくれた。

「それ面白いからやってみれば」

自分が意図していなかったところに反応され、面食らったが嬉しい気持ちになった。

「それ言っていいんだ。それって面白いんだ」

とはいえ、「生きることがめんどくさい」というネガティブな感情に向き合うことに抵抗はあった。

「そんな暗いことをじめじめやりたくないな。恥ずかしくて人に言えないな。うっかり自分をさらけ出して後でバカ見るのやだな」

小さな葛藤、だらだらと時間が過ぎる日々。他にいいアイディアがないし、タイムリミットが迫る。腹を括って、めんどくさいことについて1年間書き綴るAction『生きるってめんどくさい』をやることにした。何よりも、RCメンバーが「それ読んでみたい」と言ってくれたことが、私の背中を押した。

最初は上手く書けなかった。グチっぽくなったり、何が言いたいのかよく分からなくなったり。やっぱりこんなめんどくさい企画やりたくないなと思ったり。ところが、中間報告で発表すると笑いがおきる。なぜか皆が面白がる。

「これって面白いの?」

なんとなく手ごたえを感じ始めた。ネガティブで後ろめたいと思っていた感情は、アートという装置を利用することでユーモラスなものに変換できることに気づいた。

蓋をしていた感情を表に出すことは、膿を出すように気持ちいいし、スッキリする。そして、それが新しい創造に繋がる。自分の気持ちを正直に話すことは、他の誰かの気持ちを開くことを知った。

3月18日の最終報告をした後に、宮島達男さんから「社会起業家と社会彫刻家の違いは?」と質問を受けた。

私は「社会起業家は、社会課題に対してミッションを設定し、ビジネスを通じて解決する人。社会彫刻家は、自分の中の問題意識に向き合って行動する人だと思う」と答えた。すると、宮島さんが「社会彫刻家は表現方法としてチャーミングでないとならない。あなたの作品はそんなことやってしまうのかというドキドキ感があってチャーミング」と言ってくれた。

「表現としてチャーミングであれ」。これは「人としてチャーミングであれ」とも取れる。これからの生き方を示唆していただいた気がした。

私のActionはまだまだ続く。どのように変化していくのか、どのように終わるのか、まだ想像がつかない。でも、このActionを通して、最初に思い描いていた「アート的態度」のしっぽを掴めたように思う。そして、これからますますチャーミングに磨きをかけていきたいと思う。

関恵理子Action『生きるってめんどくさい

辿り着いたスタートライン(江口恭代)

初めて社会彫刻家という言葉と出会ったその日から、今もそしてこれからも大げさかもしれないが、探求し続けていきたい言葉との出会いだと感じている。

私にとっての「社会彫刻家」とは「与えられた今の環境で生きながらも、未来に向けて他者と関わり、社会と関わり、その中から他者や社会に向けて自分自身というフィルターを通して自らの思いを表現し、周りに自らの思いを届け、小さな気づきの連鎖を与えていくことのできる人」だと思う。

こうして最終回を無事終えてこの原稿を書いている今、自身のAction『心の声 祈り ここから新たに』を終え、ようやく社会彫刻家としてのスタートラインに立てたように感じる。

3月11日、六本木の路上を歩きながら『花は咲く』を歌うパフォーマンスを行い、また同日の現代アーティスト宮島達男さんの青山での講演会の質問タイムに挙手をし、感想として『花は咲く』を歌った。

路上でのパフォーマンスはまるで修行のようであり、通行人の視線が痛く感じたこともあったが、歌い続けているうちに自分の心はぶれずに凛と定まっていた。その時、表現するということには、伝えたい強い思い、初心を貫き通す覚悟が必要だと感じた。

思い起こせば、このActionを実施するまで生みの苦しみがあり、それと同時にワクワクもあり、苦しさとワクワクと心の振り幅が日々変化し、不安定ながらも楽しく忘れられない日々であった。

また、人との繋がりや周りのメンバーの存在の大きさをとても感じ、他者に受容され同じ思いを共有できる喜びを感じる日々でもあった。

実施予定だった私の考えたプランができなくなった時の宏子さんと曉甫さんとの日曜の朝早いSkypeでのプラン変更ミーティング、就職活動の始まる時期にもかかわらず歌の練習に何度も一緒に付き合ってくれ、一緒にパフォーマンスも行ってくれた香月さん、多忙にもかかわらず映像に収めてくれた丸尾さん、一緒に講演会で歌ってくれた宮島さん、そして同じ生みの苦しみを抱えながらActionの実施を応援し続けてくれたRC2016のメンバーのみんな。

Actionを無事実施できた日の帰り道、一人歩きながら安堵と感動と感謝とこうした出会いに胸がいっぱいになりながら、人との繋がり、生きることの意味はすべてここに集約されているという気がした。

宮城県の七ヶ浜で生まれ、仙台市で育ち、東日本大震災以降、被災地出身でありながら何もしていない自分自身にずっと後ろめたさを感じ生きてきた。Actionを行ってみて、癒され救われたかった対象は、自分自身だったということにも気がついた。背負ってきたこれまでの重い気持ちから解放され、軽やかな心持ちでこれから前を向いて生きていける。そんなスタートラインにやっと辿り着けた気がする。

このRCでは、一番自分自身の心の対話を求められている気がした。企業の秘書として働いている私は、常に自分を一旦どこかに置いて一歩引いた立場を演じなくてはならない。

だからこそ、自分の気持ちとありのままに対話し、自分の想いを受容してくれる仲間と出会えたことは大きな意味がある。自分自身を表現できる場所を得られたことは、大きな感動体験であった。

1年間RCのメンバーとして関わり、自分と向き合う機会を持てたこと、自分を表現する面白さ、自由を得たこと、仲間との出会いなど想像以上に新たな発見の日々だった。まさに今を生きた、そんな青春時代にも近いものを感じた。

皆の心の葛藤、生みの苦しみを共有できたからだろうか。同志のようなこれまでにない新たな人間関係を結べる場所であった。これからも、そうあり続けるように来年も関わっていきたい。

ここで終わらずに、これからも自分との対話を続け、社会彫刻家を目指して日々生きていきたい。

江口恭代Action『心の声 祈り ここから新たに

「アーティスト」と「社会彫刻家」(山田悠)

1年間のRCを終えてみて、私は「社会彫刻家」とは「人と人との関係をつくっていく者のことである」と答えを出したい。

漠然と、「社会」とは自分の力ではどうにもならない、何かとても大きくて捉えどころのないものだと思い描いていた。しかし今はもっと身近で、目の前にいる人々との関係をきちんと結んでいくことで、「社会」はつくられていくものなのだろうと感じている。そして、そのことに自発的で、意志を持って働きかけをしている者が「社会彫刻家」なのだろうと思う。

私は「アーティスト」としてRCに参加していたが、難しいところが多かったのが正直な感想だ。RCに参加する前の面接で(参加者は全員、菊池宏子さん、林曉甫さんの二人と事前に面接を行っている)菊池さんから「普段はアートをやっていない人たちに向けた講座だから、座学ではちょっと退屈しちゃうかもしれないし『アーティスト』だから求められることも出てくると思うけれど、それでも大丈夫?」と言われていた。2016年6月のことである。

2015年末にフランス留学から戻った私は、「自分はアーティストとしてどのように生きていくことが出来るのだろうか」と悶々としていた。面接で「大丈夫?」と言われてはいたが、自分の中ではこのプログラムは「社会彫刻家」の育成が目的であるから、「アーティスト」である自分自身は横に置いて参加出来ると考えていた。そうすることで、この社会の中での「アーティスト」の位置を客観的に掴めると思っていた。

そんな想いで始めたRCだったが、あっけなく私の思惑は打ち砕かれた。初回のRCで行った他己紹介(2人ペアとなってお互いのことを全員の前で紹介し合う)で、室内さん(「会長」というあだ名のRC2015メンバー)とペアになったのだが、そこで彼女より「山田さんはアーティストです」と高らかに宣言して頂くことになる。本当はもう少しひっそりと、息を潜めながら参加する予定だったのだが、ここで晴れて「アーティスト」としての参加が公然のものとなった。

世の中は常に肩書きを欲するのだ、とその時ばかりは強く思ったが、このことをきっかけに私はRCに「アーティスト」として参加することに対して、徐々に前向きになっていく。また同時に「アーティスト」であるのだから面白いことをしなくては、良い作品を作らなくては、というプレッシャーも常に感じていた。

今ここで、RCが終わってみて思い返してみれば、私がこの8ヶ月間で繰り返し自分自身に問い続けてきたのは、そもそも「私はなぜRCに参加したのか?」ということだったように思う。参加しておきながら、終わるまでずっと参加理由を問い続けるというのは変な話だが、自分自身が対峙する課題そのものを考えることが求められるこの学校で(第6回のネットTAMレポート参照)、私にとっての課題はまさにRCへの参加理由の中に隠れていたのだと今にして思う。

おそらく、メンバーのそれぞれが自分の中に何かしらの疑問や課題を持ちながら、しかしそれが何なのかはっきりとは分からずにRCへの参加を決めたのではないだろうか。ある人にとってそれは「後悔」だったかもしれないし、またある人にとっては「欲望」だったかもしれない。そしてそれは、私にとって「アーティスト」としての私自身と向かい合うことだった。参加前に抱いていた「自分はアーティストとしてどのように生きていくことが出来るのだろうか」という想いは、そのまま「私はアーティストとしてどのように生きていきたいのか」という形の問いになって返ってきた。

「アーティスト」と「社会彫刻家」の具体的な定義や違いが自分の中で明確にならず、「社会彫刻家」として学びたいこと、「アーティスト」としてやりたいこと、「アーティスト」として求められること、これらの間を何度も行き来してきた。「社会彫刻家」=「アーティスト」ではなく、「アーティスト」=「社会彫刻家」でもないが、「アーティスト」であり「社会彫刻家」でもあることは可能なことであると思う。

アート作品(『Counter Void』)が、作者自身(宮島達男)の手から離れ、それを引き受けた人たち(Relight Project)によって、また別の誰か(Relight Committee)に引き継がれていく。アート作品を皆のものとして「つかってほしい」という想い、それを誰かと一緒に「つかおう」という想い、「つかいたい」という想い。私はRCを通じてそれらを共有し、またその想いのバトンを「つかった」という実感と共に手にすることが出来ているように思う。

まだまだ未熟な私であるが、「アーティスト」であり、「社会彫刻家」でもあるように生きることを目指して、ここから一歩一歩、自分の行動を起こしていきたい。

山田悠Action『Passengers

「闘技場としてのRelight Committee」(田島悠史)

ぼくがおぼろげに思う「社会彫刻家」の定義は、「個人の動機を社会に繋げ、その実現に向けて動く者」という感じのものになると思う。おぼろげなのだけれど。

(外部からの依頼ではなく)個人の動機が起点になる以上、他者との衝突は不可避になる。しかし、その先には社会がある以上、その闘争は落とし所のあるものになるはずだ。政治学者Chantal Mouffeは「闘技的民主主義」を唱えている。これは乱暴に言えば、ゲームのルールの範囲内における葛藤や衝突といった「闘技」こそが民主主義には必要だ、というものだ。

ぼくがRCに求めていたものは、まさに「闘技」であり(…とカッコつけてみたが、要は「話がしたいから」だ)、それは十分に与えられたというのが今の実感だ。RC2016という「同級生」や、RC2015という「先輩」とたくさんの議論という「闘技」ができた。

しかし「闘技」を享受できる人は限られている。その一方で、その機会がなくても環境を整えることで「闘技」ができる人はいる。「闘技」を広げる方法はないか、と考えて実施したのがぼくのAction『collided thanatologies』だ。これは、ある90歳の女性に対する質問をインターネット上で呼びかけた上で、私が媒体となりながら、女性がその質問に回答するものだ。世代も価値観も異なる質問者と回答者を、私とインターネットが媒介することで「闘技」が可能になるのではないかと考えた。

結果として、Actionを通じて面白い「闘技」ができた。
Q「亡くなった人で会いたい人は?」A「いないねえ」(いないのかよ!)
Q「一番楽しかった時期は?」A「戦争中、同世代の女の子たちと病院で働いたこと。他愛もない話が楽しかった」

などなど。会いたい人と言えば夫、戦争と言えば悲惨、といったステレオタイプが崩される。動画の編集はまだ終わっていない。まだまだ面白いネタ、「闘技」のネタが詰まっているように思える。

『collided thanatologies』の実現までに、鋭い質疑応答が繰り広げられた。私の発言の矛盾や、考えていない部分を的確に指摘された。それに対して、数秒で回答をひねり出して、また有効なコメントを頂く。RCは「闘技場」であった。

思えば「闘技」できる環境はなかなか存在しない。「闘技」はスピードを遅らせ、成果を減らし得るからだ。それは仕事はもちろん、大学のような教育コミュニティですら成果を求められ、しっかりと「闘技」する機会が作りにくくなっている気がする。

さて、この一年の経験を、どう今後に活かしていくか。

「RCによって、今後が完全に変わってしまった」ということはさすがにないのだが、やるべきことの視野は明瞭になったように思える。たぶんそれは「闘技」に関わるものだろう。

それにしても、心地よく楽しい時間だった。最後に「RCの皆さん。また何かやりたいです!」と叫んで、この場を締めようと思う。

田島悠史Action『collided thanatologies

緩やかな繋がりの場所

3月18日のRCでは、RC2016による「座談会」と、RC2016発プロジェクト『社会彫刻家を探せ』の発表も同時に行われた。

RC2016による「座談会」は、RC2016の学びの総決算・振り返りとして実施した。「座談会」と言っても堅苦しいものではなく、モデルは1月にRC2016がこっそりやった「新年会」だ。

「気楽に話せそう」ということで指名されたRC2015の山上祐介さんの司会により、「座談会」は始まった。最初に考えていた社会彫刻家はどんなものだったか、一番苦しかったのはいつだったか、前回(2月18日)の授業はどうだったのかなどについて、色々な意見が飛び交った。

『社会彫刻家を探せ』は、3月11日から3月13日の3日間、社会彫刻家だと思われる人を撮影し、何故その人が社会彫刻家であると考えるかを記録するプロジェクトだ。このプロジェクトは、RC2016のメンバーが「RC2016が協働でやれるものをやりたい」という想いが起点となって作られた。RC2016のメンバーが共に社会彫刻家について考えてきた、これまでの学びの総決算でもある。このプロジェクトの成果は、今後一般公開も検討されている。ぜひ注目してほしい。
この二つに共通することは、どちらも「市民大学」としてのRCを表したプロジェクトということだ。「市民大学」である以上、そこで繰り広げられる学びは決して孤立したものではなく、独立しつつも緩やかに繋がっていることが要求される。RC2016のメンバーがそれぞれの想いで実践したActionと、「座談会」や『社会彫刻家を探せ』のような協働プロジェクトの両輪によって、私たちは「市民大学における学び」を実践できたのではないだろうか。

とはいえ、私たちは社会彫刻家としての一歩を踏み出したばかりだ。今回、それぞれが自分のActionを実施したり自己と向き合ったりしたことで得られたものの大きさは、どれほどのものだったろうか。ここで終わらず、引き続き社会彫刻家として自分のActionを続けるメンバーもいる。それぞれがこれからも自分自身と向き合い、表現し続けていく。全ては私たち一人ひとりに任されている。

RCもこれからも変化し続けていく。変わらないために、変わり続けていく。春からは新しいメンバーの募集が始まるようだ。よりよいCommitteeになることを願い、終わりとしたい。

レポート執筆:Relight Committee2016(松葉有香、高木萌子、江崎日淑、関恵理子、江口恭代、山田悠、田島 悠史)

写真:丸尾隆一