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クリエイティブ・コモンズとアートの関係−Relight Session vol.3 レポート【1/3】

六本木のけやき坂にある『Counter Void』の再点灯に向けたアートプロジェクト「Relight Project」。Relight Session vol.3では、起業家・情報学研究者のドミニク・チェンをゲストに、アーティスト、Relight Projectメンバーの宮島達男、inVisibleの菊池宏子がモデレーターに、「アート×社会ー見えないモノを想像するー」と題し、情報社会とアートの関係、アートがもつ可能性と人の行動のあり方についてトークが行われた。Relight Days3日目の3月13日に開催されたトークセッションの内容をレポートする。

Relight Session vol.3

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司会:人間と生と死をテーマに作られた、東京を代表するパブリック・アート『Counter Void』は5年前の今日、東日本大震災の発生から2日後の3月13日、震災による犠牲者への鎮魂の意を込め、作者である宮島達男自身の手で消灯されました。

その後「Relight Project」を立ち上げ、人々の心に問いと気づきを生み出すシンボルとして『Counter Void』の再点灯を取り込むと同時に、未来の生き方や人間のあり方を考えるプラットフォームとなることを目指し、様々な活動を行っております。

本日のトークセッション運営にも関わっている、私たちRelight Committeeは、20代から60代までのさまざまな経歴を持つメンバーで構成されています。アートと社会の定義について、従来の定義や枠組みを超え、対話を重ねながら具体的な行動に繋げる学びの場を目指し、昨年9月にスタートいたしました。どうぞよろしくお願いいたします。

3回目を迎える今回のトークセッションでは「アート×社会ー見えないモノを想像するー」と題し、『Counter Void』の作品のテーマである「生と死」を取り上げ、再点灯と同時に改めてこの問いに向き合うことで未来を考えるトークセッションを開催いたします。

早速ですが、まず、本日のスピーカーをご紹介いたします。向かって右手から、起業家、情報学研究者のドミニク・チェンさんです。続きましてアーティスト、「Relight Project」メンバーの宮島達男です。最後に「Relight Project」メンバーであり、プロジェクト事務局であるNPO法人inVisibleの菊池宏子です。よろしくお願いいたします。

インターネットが、表現の世界に新たな命を宿した

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起業家・情報学研究者のドミニク・チェン

ドミニク・チェン(以下、ドミニク):今回このような機会いただいた時、宮島さんの『Counter Void』の作品や「生と死」というお題を踏まえて、僕の中でずっと考えてきて、リアルタイムで今も考えていることとして、どうして僕たちは「表現」ということを行うのか。

ここには情報技術が関わってくることもあるし、そもそも情報技術以前の部分、我々の身体性の中で表現がどう関係しているのかということもあるので、ライフワーク的にずっと考えているテーマなんですね。

生命としての僕たちは、生物学的に複製をして子供を作り、社会を時間的に継続させていくわけですけれども、インターネットがもたらした面白さは、生物的な制約とは別の領域で情報的に僕たちの表現を発信して、表現同士が混ざり合って新しいものが生まれてくるという、別のレイヤーの生命性があるのではと考えています。

僕はNPO活動と自分の会社の活動をやっています。先に前者のNPOの方の話をしますと、「クリエイティブ・コモンズ」という運動をずっとやってきました。いわゆる法律の世界には著作権があり、その制度の大枠が140年くらい前に決められたものがインターネットの時代にもずっと続いています。それがインターネットと言う新しいプラットフォームが可能にした新しい価値観とうまく整合しないよね、という議論が15年くらい前から起きてきました。

その時に、いわゆる著作権という保護されている領域と、著作権が失効したパブリック・ドメインという領域と、今の法律だとこの二つしかないんですね。つまり「1」か「0」かみたいなところなんですね。でも、もっとインターネットで情報発信している立場のリアリティとしては、その中間層があるんじゃないか。

だから、自分の作ったものによってはより多くの人に無償で使ってもらいたいし、その他のものではきちんとビジネスとして成立させたいというグラデーションを作るということを、この「クリエイティブ・コモンズ」ではやっています。6つの基本ライセンスを提供して、アーティストが自分自身で、自分の作品はこうして使って欲しいよと意思表示するシステムとなっています。

オープンデータで広がる「想像の自由な連鎖」

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス、CCライセンスはいろんなサービスに使われています。一番有名なのはWikipediaですね。Wikipediaは3千万件くらい記事があるんですが、全部CCライセンスが付いているのと、ライセンスの条件に従えばどなたでも自由に改編したり、営利目的に使うこともできます。

あとは大学の教材としてMITであったり、YouTube、Flickr、有名なところだとTEDですね。最近面白いのは「Europeana(ヨーロピアーナ)」という、ヨーロッパ連合が推進している文化遺産オンラインみたいなところで、ヨーロッパ中の美術館が所蔵しているデジタルデータをオープンデータにして誰でも使えるようにするもの。

10年前の2006年では、全インターネット上で5,000万件ほどしかCCライセンスがついた状態はなかったんですけれども、10年経って8億8千万件くらいまで増えてきて、最近多いのは、行政がオープンデータで政府系の情報をどんどんCCライセンスを付けて公開している。

今は世界中で80か国以上に支部があるんですけれども、私は日本の支部を2004年に立ち上げて、2007年に正式にNPO法人化して、以来ずっと理事を務めています。アーティストの方々だったり、教育機関だったり、組織の方々に使ってくださいという話をして、「皆使ってね」と普及活動もしているんですけれども、もっと面白いことができるんじゃないかと思ってアプリの開発もやってきました。

これは実際に、CCライセンスが付いた8秒のループ音源をいろんなトラックメーカーの方に作っていただいて、このアプリを立ち上げるといろんな音源がランダムにダウンロードされてぐるぐるストリーミングされるもの。

こういうランダムなつながりの上で、「あ、今気持ちいいな」と思った時にシェアをすると、その状態の音源ファイルが生成されてそれがTwitterとかで拡散して、その作られた音源自体はCCライセンスで自由に使ってもらえるという”創造の自由な連鎖”というのを狙っていました。2009年からずっと公開しているものですね。

ビジネスロジックに噛み合わない昇天が意味するもの

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会社ではいろんなウェブサービスを作っています。これは2008年なのでもう8年くらい経っていますが、匿名で最近凹んだことをつぶやくと、他のユーザーが慰めのメッセージをいっぱい書いてくれて、それで自分が満足した時に「成仏ボタン」というのがあって、その「凹み」を成仏させると昇天して消えていってしまうもの。

これは実は、ビジネスロジックとしては弱いものでして。どういうことかというと、せっかくユーザーが投稿してくれた情報を意図的に消してしまうんですね。本当に消えてしまって検索にも引っかからないんです。ユーザーの心情としては、自分の終わった過去が昇天してしまった方が自然だろうと思ってこういう風にしたんです。

開発は終わっていて、今もずっと運用していてユーザーさんが使ってくださっています。この時に、情報技術と人間の感覚の違いであったり、擦り合わせみたいなことをすごく考えさせられました。普通のビジネスロジックだったら全部検索可能にして、広告をバンバンつけて収益を発生させるはずなんですが、我々はそうしなかったんですね

でも、コンピューターが得意なことは永続的に記憶させることだったり、いろんな情報を一斉に処理して全体的な平均やランキングを出したりすること。たとえば凹みのランキングということはしなかったんですけど、それはユーザーという視点から突き詰めた結果、何が一番自然かということを考えてたんですね。

クリエーターの息遣いを可視化する

これがビジネスとして成立しなかったのも大きな反省点なんですけど、ここで得られた知見や発想を捨てずに、次に生かして情報技術の設計をずっと考えていくことは大事です。こちらは別のプロジェクトで「TypeTrace(タイプトレース)」というもので、ワープロで文章を執筆する時のプロセスを全部記録して再生するというソフトウェア。

これはもっと古くて2007年くらいに作ったものなんですが、東京都写真美術館で舞城王太郎さんという小説家に、新作の小説をこれで書いていただいて3か月間ずっと公開していました。すると舞城ファンの方々が半日くらいソファにへばりついていて、「次は何を書くんだろう?」という感じですごい食いつきように見ている。すごく面白かったのは、後ろで流れているのが舞城さんが実際に書いた通りに再生されているんですね。

単語やフレーズの要素が大きかったり小さかったりするのは、日本語でタイプしはじめてからEnterを押して確定させるまでにかかった時間が長かったものほど大きくなります。素早く書いたものは小さくなって、時間がかかった部分は大きくなります。そうすると、可視化のロジックを入れてあげるだけで、執筆のリズムというかテンポ、息遣いが感じ取れるというようになっています。

動画のようにテキストが書かれていくんですけれども、読み手としても生命的な気配を感じさせるし、書き手にもまるで自分が書いたのではないみたいに、半分自律的なもののように感じられるというところで、書き方のスタイルが変わったりといった面白いフィードバックが生まれました。

これは完全にアートプロジェクトとしてやっていたので、ビジネスとしては展開していません。当時から今日まで他にもたくさんのプロジェクトをやってきたんですけれども、最近作っているものを2つほど紹介します。

ありのままの素材で新たなコミュニケーションを生む

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一つはスマホのiPhoneで主に展開しているもので、「Picsee」という写真のプライベートメッセンジャー。グループを作ってその中でシャッターボタンを押した、瞬間に相手に写真が届くというものです。

このコミュニケーションの仕方は、写真を撮ってから事後的に加工したり選択するというのではなく、今目の前に見えているものを相手に送るというもの。クローズドな関係性なので「良く見られよう」という気持ちはあまり発生せずに、自由な感じで写真が集まっていく。その上で、テキストチャットもできる。

ウェブで写真というと、InstagramやTwitterは自分をより良く見せようみたいな力が働くと思っているんですが、Picseeは本当にプライベートで、しかも撮った瞬間に送られてしまうシンプルな構造で、普段友人とか家族でも送りあわなかったような写真を送りあうようになっています。コミュニケーションを新しく生み出すきっかけになっているのが、作り手としてはとても嬉しい現象ですね。

もう一つはさらに新しいプロジェクトで、先月リリースしたばかりの「シンクル」というアプリです。これは簡単にいうと匿名の掲示板ですが、アプリを開くと一見TwitterとInstagramを混ぜたような見え方になっています。これは何かと言うと、偏愛のコミュニティを作っていまして、他の誰にも理解されないだろう偏愛に関するトピックをバンバン立てることができる。それを他の人が「あ、これ自分もわかる!」って共感ボタンを押してくれると、自分に通知がくるもの。匿名だし共通のタイムラインみたいなものがないので、トピックごとに思う存分好きなことについて語ることができる。

これも、最近のTwitterやFacebookに僕自身すごく窮屈に感じるようになって、プライベートなことが一切書けなくなってきて、書くこと全てがポジション・トークなんじゃないかって思うようになった。僕が自意識過剰なのかもしれないけど(笑)、いまの大きな方向性としてはやっぱり他者に対してしっかりした自分を見せるという構造が主流になっている。

だから、常にお化粧してお洒落していなきゃいけないという今のインターネットが息苦しくて、もっと普段着とかパジャマを着た感じでボーッとしながら書けるんだけれども、そこにちゃんとお互いへのリスペクトとか、好きなものに対するリスペクトがあって荒れない場をどう設計できるかを考えています。

使っていて非常に面白いのが、他の人の好きを見ていると自分自身が忘れていたような大事な偏愛を思い起こさせたりして、「あ、そういえば自分はこれ好きだった!」ということもある。他のユーザーと自分とのシンクロ率も測れるので、この人とは30%と出ているんです。

時々90%のシンクロ率の人が出てきた時にその人のプロフィールを見ると、自分と被っているものと被っていないものがある。すごくシンクロ率が高い人だと、自分は知らなかったけどこれはいいね、っていうものをたくさん発見できる。だから、あくまで自分と他者との主観的なつながりを通して、自分に関連性の深い新しい情報に辿り着く、という構造にしてあります。

今の情報技術は理系の分野と思われているけれども、どんどん人文知みたいなものが必要とされはじめています。情報伝達=transmisshionということだと、コミュニケーションって情報工学の分野と同一視されることが多いんですけれども、実はコミュニケーションはもともとは「分有する」とか「関係を持つ」って意味があるんですね。

ただソーシャルメディア上で情報発信をして、それでコミュニケーションって言えるかどうかはもっと深く考えたいなと思っているんです。昨今、人工知能の話もあるんですけれども、これも仲間の研究者たちとよく言っているのが、人工知能に任せられる部分と、人間側をより豊かにしてくれる情報技術として、AとIを逆にして「Intelligence Amplifier」(IA)。これはまさに、東大の池上高志先生たちが仰られていることで非常に共感している部分です。

アートをどのように成仏させるか

宮島達男(以下、宮島):チェンさんの話は私もすごく共感できる部分が多くて。特に凹みのアプリの話、あれで失敗したと言っていたんですけど、あれが良かったですよね。あれで成功してお金儲けできましただと、シリコンバレーの成功者みたいな話にしかならないわけで全然面白くないんですけれど。あれは僕は素晴らしいと思いますね。

今、アートもそうなんですけれども、生み出したけれどもそれをどうやって成仏させていくかは大きな課題なんですよ。『Counter Void』もそうですけど、生むだけ生んだけどあとはどうしようもなくて手に負えないパブリックアートが、かなり多いんですよね。

それは負の遺産でしかないんだけど、成仏させるシステムがないからただ置いてあるんだけ。だから、ちゃんとアートを成仏させてあげることを考えていかなくちゃいけないなって思っているところだったので、情報をちゃんと成仏させてあげるのは非常に素晴らしい発想だと思いました。

チェンさんみたいな、いわゆる情報工学系というかサイエンス系の学者の人たちは、いわゆる文系的なアートとかカルチャーにあまりタッチする人はいなくて、だからシリコンバレーの成功者くらいにしかならないんだけど。

世界を変えていくことを考えた時に、もっと違うアプローチの仕方、つまり両者が寄り添っていくような。ベルグソンとかドゥルーズとかを読んでいるサイエンス系の学者ってほぼいないんだよね。おかしいよね。僕が知っている中では池上高志くらいしかいなくて。そういうところがすでに生命から遠ざかっている。

技術だけが孤立しちゃっているというか、技術対人間みたいな話になって、以後の人工知能対決みたいな話にしかならないんだよね。それって全然つまんない。今、人間とテクノロジーが共存しているわけだから、それをどうやってより良い世界に変えていくか、協働の話をしなくちゃいけないのに対立の構造にしかなっていなくて、面白くないと思うんだよね。

宮島達男はクリエイティブ・コモンズ

アーティスト、Relight Projectメンバーの宮島達男
アーティスト、Relight Projectメンバーの宮島達男

菊池宏子(以下、菊池):ドミニクさんとお会いすることが決まり、ドミニクさんのことを少し、勉強してみたんですね。

その中で「シンギュラリティ」といった言葉など、今ひとつ私の中ではよくわからない言葉の中を旅していて、そして巡り合ったのが2015年に「ポリタス」の中で書かれた「豊かで複雑で美しい「生命」のような国へ」の記事です。私はそれにとても心を動かされました。

いわゆる情報社会とか情報技術、技術系の中で「ある意味、技術を取り外しながらいかにより良い未来を築いていくか」というツールとしての捉え方だったり、宮島さんがおっしゃったように情報を本来使い込むことが市場の中で求められている中で、それを敢えて手放す、ある意味不変な情報の扱い方をする。

だからこそ、今回「Relight Project」自体もRelight Committeeが中心となって、3日間という時間をかけて非常に見えにくい活動をしているんですね。ドミニクさんをここにお招きしたかった理由にもつながるんですけど、実は宮島さんも「Relight Project」のメンバーという扱いになっていることを皆さんもお気づきだと思います。宮島達男という作家があってのプロジェクトというよりは、宮島さんも私も司会の山上さんも同一なんですよね。

宮島:そうそう。宮島達男はクリエイティブ・コモンズなんですよ。アート・ヒストリーをよく考えてください。アート・ヒストリーの中で大義があるとされるのはデュシャンとジョン・ケージなんですよ。デュシャンはレディ・メイドによって、芸術というものの神秘性みたいなものを引っぺがしてしまった。ジョン・ケージは、アーティストの個人性を引っぺがしてしまったアーティストなんですよ。

だから、今アート・ヒストリー的に行くとミニマル、コンセプチュアルと来ていて、僕は1995年に『ゼロの消去』っていう作品を竹山聖という建築家とコラボレーションしたんですよ。アーティストの個人性をゼロと置き換えた。つまり、個人をどれだけ消去できてアートが成立できるかの実験を行ったんですけれども、まさに1995年なんですよね。

だから僕的に考えて行くと、その時にアーティストの個人性なんかはどうでもいいと思っていて。パーソナリティとかオリジナリティみたいなことはどうでもよくて、アートをどれだけ使えるか、いろんな人たちがプレイヤーとしてどれだけアートを使っていただけるかにすごく興味があったんです。

ドミニク:そこはめちゃくちゃクリエイティブ・コモンズ的ですよね。僕自身、メディア・アートの世界から情報サービスの世界に飛び出したのは2006年頃だったんですね。当時は「web 2.0」って言葉が流行っていて、ブログとかYouTubeみたいに個人が情報を発信できるシステムがどんどん増えてきたんですよね。その時にGoogleとかFacebookとか、先ほどシリコンバレーの成功者にしかならないとおっしゃられましたが、僕としてはそこの方々はすごいなと思っているところで。

今はちょっと違う思いがあるんですけれども、2005-6年頃に、現代アートとは違うところだと思いますが、メディア・アートの世界、ホワイト・キューブの中でも良い作品なのにすごく狭い世界でしか評価や情報が流通しないという状況に悶々としていたんですね。メディア・アートセンターの中の者として、これで本当に良いのかと。つまり、ウェブの世界で起こっていることの方が、実験的な創作の場であるメディア・アートセンターよりもエキサイティングだったんですよね。

世の中がどんどん新しい情報の流通の仕方とかコミュニケーションの仕方がネット上では増えてきているのに、アートの世界はキュレーターとアーティストのつながりとか、オープニングをやってもいつも同じ人たちが集まるという。

宮島:アートの世界はオリジナリティとか天才とかを崇め奉る世界なんで、天才って言った瞬間に見てる観客というか、それ以外の人たちも肯定するんですよ。天才だから。天才ってこの人が言われたら、じゃあ僕は凡才だからってその人の意見を丸呑みにしちゃうわけですよ。自分で考えることをしなくなってしまう。

だから「Relight Project」の『Counter Void』もそうなんですけど、今回面白いなと思ったのは『Counter Void』を料理をして、そして3.11と関連付けていかに使い倒していくかを、プレイヤーであるRelight Committeeメンバーが考えていたよね。すごいと思うんですよ。僕は何も言ってないですからね。

背景がなければ淘汰されるアート、越境できず崇められるアーティスト

ドミニク:宮島さんも素材のひとつにすぎない?

菊池:全くそう。

ドミニク:従っているだけなんですね。ところで、僕はアートの歴史を信じているんですよ。それは何かというと、違うところもあるんですが研究の世界とも似通うところがありまして。今、2005-6年代のフラストレーションを思い出しているんですけど、アート・ヒストリーを知らない研究者たちが自分たちの作った変なシステム、つまりいわゆる査読付きの論文、工学的な評価がしづらいものをとりあえずメディア・アートと呼んでおこうみたいな。

今もそういう潮流があるのかもしれないんですけど、僕は工学部にいたのですごく忸怩たる思いがあって。やっぱり、過去へのリスペクトを取り込んだ方が「ただ作りました、すごいでしょう」で終わるのではなくて、やりっぱなしじゃないところのもう一つの答えのヒントは、作った物が新しくそれを受け取る人の中で何を作り出すかだと思うんですね。そのためにはアート・ヒストリーは非常に重要だと思っていて。

宮島:たぶん過渡期だと思うんですけど、今「こういうことを書いちゃえばそれでOK」って時代は過ぎ去っている。それから、アート・ヒストリーのバックボーンみたいなものがないやつは、もう軽すぎちゃって飛ばされちゃうんですよ。つまり、淘汰されていく時期に入っていて、いろんなものが出てくると、バックボーンとしてちゃんとアート・ヒストリーも抑えてる人がやっていることとそうじゃない人の差異が見え始めているんですよ。当然ですよね。

そうすると、やっぱり厚みのあるものだけがちゃんと残っていくことになるので、あんまり心配する必要はないかなって気もする。それよりも、どちらかと言うとまだまだアートとかアーティストに対する変な枠みたいなものがあってカテゴライズされていて、それが飛び越えられないでアーティストの言葉を見る側がそのまま受け取ってありがたやと平伏す構造がある。全然変わってないんですよ。そこをまずぶっ壊さないといけない。

アート・ヒストリーを使い倒し、生活必需品にする

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ドミニク:先日、現代美術家の友達と話していて、僕その人の作品がすごく好きですごく応援しているんですけれども、その人から教えてもらったのが、アーティストの世界ランキングみたいなサイトがあるらしいんですね。

それで、上位1万位以内くらいには食い込まないと箸にも引っかからないみたいな。なるほど、TOP100とかTOP10は神々の領域で、それを見ていてなんだか悲しい思いになったんですね。

つまり、インターネットの非常に面白い部分であると同時に、アート・ヒストリーが不可逆的に破壊されている理由は、地球の裏側のブラジルで誰かがすごく新しいものを発明しているかもしれないんだけれども、それをキュレーターだったり批評家が知らなかったら全然歴史に組み込まれない。じゃあ一体、現行のシステムの中でアート・ヒストリーはどれくらい正当性があるんだろうってところから考えなければいけない。

宮島:アート・ヒストリー自体は実はすごく変更されているんですよ。

ドミニク:更新ってことですか?

宮島:更新もされているし、完全に変更もされていますね。

菊池:基本的に、美大に行かなきゃ学ばないですよね?

宮島:そうですね。だって僕が80年代に大学で勉強している頃に、フェルメールなんて誰も知りませんでしたね。1985年に初めて日本でフェルメールの展覧会があって、それで皆後ろを振り返る少女の絵を「すげー」って言って、オランダに行ってフェルメールを見なくちゃ、みたいなツアーができた。

今になると「お前フェルメール知らないの?」みたいな。そういう話ですよ。この20年、30年でこれだけフェルメールの評価が変動する、変動相場制みたいなアートのヒストリーがなんぼのもんじゃいって感じですよ。

ドミニク:やっぱりそうだったんだ。

宮島:だって、僕が勉強している時に長谷川等伯を知っている油絵科の人間は、一人もいませんでしたよ。

ドミニク:え、本当ですか!?

宮島:そうですよ。そういうもんなんですよ。それが明治大学の先生が「日本美術面白いよ、長谷川等伯知らないの? モグリだね〜」みたいなことを言われて、それで皆「長谷川等伯でしょ〜、今」みたいな。「今だったら若冲でしょ」みたいな。「おいおいおいおいおい(笑)」みたいな、そういう話ですよ。

だから、アート・ヒストリー自体も自分でしっかりと考えて変更して、自分で使い倒していかないとあんまり意味がないんですよ。

ドミニク:そうですよね。だから、作り手にとっての価値が必要なことで、それを見てこの人は偉い、この人は偉くないっていうランキングを作ることのためではなくて。

宮島:クリエイティブ・コモンズじゃないけれど、それくらい健全に自分にとってどうなのか、考えるのを止めないわけですよ。問い続けているわけです。だから生活必需品になるというか、自分にとってのアートとか自分にとってのアーティスト、作品はすごく身近で、自分のライフの一部になっているわけです。それがやっぱり健全なんじゃないかと思っているんですね。

【2/3】に続く