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人のあり方、アートのアーカイブのこれからーRelight Session vol.3 レポート【3/3】

六本木のけやき坂にある『Counter Void』の再点灯に向けたアートプロジェクト「Relight Project」。Relight Session vol.3では、起業家・情報学研究者のドミニク・チェンをゲストに、アーティスト、Relight Projectメンバーの宮島達男、inVisibleの菊池宏子がモデレーターに、「アート×社会ー見えないモノを想像するー」と題し、情報社会とアートの関係、アートがもつ可能性と人の行動のあり方についてトークが行われた。Relight Days3日目の3月13日に開催されたトークセッションの内容をレポートする。

クリエイティブ・コモンズとアートの関係−Relight Session vol.3 レポート【1/3】
アート・ヒストリーがもつ意味、そして評価の多様性−Relight Session vol.3 レポート【2/3】

アートと相反する、全員参加型のクリエーション技術

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ドミニク:菊池さんから「アーカイブの作り方」というテーマをもう一つ与えられていました。『vanitas』という慶應SFCの水野大二郎先生が中心にやっているファッションの雑誌があって、そこでアーカイブについてインタビューしていただきました。

いま、岐阜にあるIAMAS(情報芸術科学大学院大学)で非常勤講師をしています。いわゆるメディア・アートを作る技法を教えているところで、卒業生のなかにはメディア・アートに限らず企業に就職してウェブサービスを開発する人などもいて、いろんな人がいる学校です。

そこで僕が最初にやった授業が「自分の活動のアーカイブを全員共通のフォーマットで作ってもらうこと」だったんです。どういうシステムを使ったかというと、ウェブにあるサービスで、GitHubってサイトがあります。(画面を見せながら)例えばこの「torvalds/linux」というのは、リーナス・トーバルズさんのLinuxプロジェクトのプログラムコードがそのまま見れちゃうんですね。

オープン・ソースになっているので、誰でもこの中がどうなっているのかが見れて、しかもコミットと呼ばれるコード修正の歴史を全ての時点において遡ることができる。5行消しているとか、そのくらいの細かさで全ての修正の歴史、改善の歴史が集積できるんです。

これはすごいことだと僕は思っていて。Linuxという世界中のコンピューターの大きな部分を占めているオペレーションシステムの中身全て公開されていて、誰でもそれを瞬時にダウンロードして開発に参加することができるんですね。例えばこれをダウンロードして、修正を加えて「トーバルズさん、これどうですか?」と返すことができる。それはトーバルズさんがOKを出さないと公開されない。そうやっていろんな人のいろんな小さなクリエーションがどんどん集まって、より良いものになっていく。

ソフトウェアの世界ではどのような参加形式がメインなのかというと、バグ取りとかセキュリティの向上であったり、新しい機能の開発ということもあります。ソフトウェア開発とアート制作が一番大きく違う部分は、目的がはっきりと定義しやすいんですね。バグを少なくするとか、新しい機能はこれなんだけど一番良い実走方法は、みたいな議論がしやすい。

これを単純にアート作品に当てはめられるかって言ったら、当てはめられないんですよね。目的の定義自体が非常に難しいわけですから。何が良いのか悪いのかみたいなことがわからない。

宮島:そうそう。アートでバグ取りって言ったら、何もなくなっちゃうんでしょうね。バグばっかりですから。

ドミニク:バグから発生するアイデアみたいなものこそが大事ですよね。ただ、GitHubが面白いのが、世界中で作られているソフトウェアの歴史が、ネットという共通基盤の上で確実に紡がれているんですよね。先程言っていたような、地球の裏側の人がいきなり自分の作っているものに共感して一緒に作り始めるとか、自分の作っているものをベースに全く違うものを作り始めるということが、ソフトウェアの世界では起こっている。

この構造自体はすごく美しいなと思っていて、IAMASでやった時はプログラミングする人もしない人も、中にはワークショップを企画してる人とか、本を書いてる人とか、いろんな子がいたんですけど、やってみたら普段だったら話さないような学生同士でお互いのツッコミ合いが始まって、「ここってもっとこうしたらいいんじゃない?」みたいなコミュニケーションが生まれたんですね。自分の活動の内実をオープンにすることでツッコミをもらえる、一種のアフォーダンスが生まれる。それはつっこむ側にとっても意味のあるコミュニケーションなんですね。

プロセスや苦悩など、歴史ごと他人に渡せるアーカイブ

ドミニク:もう一つ意図したことは、そうやって全ての学生の活動を共通のソフトウェアで記録してておくと、先輩たちの活動履歴が後輩たちに継承されやすくなるんですね。5年前に伝説的な先輩がいたんだけど、その人の開発の苦悩の履歴が全て見れると。

「このプログラムはこういう風に書いてたんだ、なるほどな」とか。だから、本人が全部手取り足取りやらなくても、歴史ごと他人に渡せることの意味は大きい。もちろん完璧ではないですけど、こういう体系化ができるのはインターネットならではの世代を越えたコミュニケーションかと思います。

菊池:ある意味これは、一つの視点として、これだからこそ残せるものが出てくるんですよね。

ドミニク:もちろんそうです。一番向いているのがソフトウェアのコードなんですよ。画像とかも残せるんですけど主目的がソフトウェアなので、いわゆるアート的な使い方は使い手が工夫しなければいけないような状態ではあります。ただGitHubtそのものがオープンソースなので、それを自由にカスタマイズしてアートのアーカイブの基礎エンジンとして使うことも可能です。

宮島:いまアートのアーカイブ化をどうするかを、ここにも協力していただいているアーツカウンシル東京が「アートのためのアーカイブ」のツールを開発している途中なんですよね。まだ完成形ではない。それもプロジェクトベースのアートをどうアーカイブするかという話なので、まだ使い勝手が悪いところもいろいろあるみたい。

菊池:そうですよね。アートプロジェクトが急ピッチで変容している中で、完璧なものはないと思いつつも、少なくとも取りこぼしのないようにどの部分を情報メディアを使いながら残していくことができるのか。

楽譜のようなアーカイブ、リアルな場での対話もアーカイブ

宮島:何にしても、学生たちが参加していく、自分たちがプレイヤーの一員だっていうのはとても面白い。昨日の「Relight Days」のイベントで、楽器を弾いてくれた方が言っていて面白かったのが、「今日は『Counter Void』の前で弾かせてもらってとても楽しかった、自分なりに解釈して自分なりに弾けたんで良かった」と言うわけ。

それは音楽の世界では当たり前で、ベートーベンなり作曲者がいてそれを弾く時は自分なりの解釈で弾くんだと。ベートーベンから文句を言われることは決してないという、そういう世界の中でそういう関係性が成り立つって言うわけ。なるほどな、いいこと聞いたなと思って。

アートは、そうあるべきなんじゃないかなと思ってるんですよ。つまり、アーティストがこういう意図で作ったというのが例えあったにせよ、それをどう料理して自分なりに咀嚼していくかは、観客としてのプレイヤーに委ねられてるんじゃないかなというのが「Art in You」的な考え方です。

菊池:実際に、現代アートにはインストラクション・アートとか、そういうアプローチの仕方があると言えばありますよね。自分の作品はあくまでも楽譜であり譜面であり、読み解く側がいてはじめて創造が始まるようなもの。

同時に、クラシック音楽や演劇の業界の方とお話する機会が多々あるのですが、全然このような話を知らないわけですよね。このプロジェクトを通じて、業種、職種など超え、横断的な対話がとても大切で、それがそれぞれ個人に共鳴し、何らかの学びとなる。

「料理のレシピも、現代アートのインストラクション・アート、演劇の台詞、クラシックの譜面もおんなじですよね〜」といった、リアルな場で対話を意識してアーカイブすることが、このプロジェクトの実態を見るためには必要なのかなと感じますね。

観察者と被観察者の関係性に気付くことの意味

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ドミニク:宮島さんの「Art in You」って考え方には300%共感しています。さっきデュシャンの話をしていたんですけど、これは1950年代くらいのラジオインタビューなんですが、次のように言っています。

”「この点を強調したいのですが、芸術家たちはこのことを言われるのを極端に嫌うからですが、芸術家たちは自分の制作に関して、なぜ作ったのか、どのように作ったのか、それが内包する価値、これらのことについて完全に自覚的であると信じたがります。しかし私には全くそう思えません。私はある絵画の成立には芸術家と同じ分だけ観察者が関与していると強く思います」”

この言葉を思い出しました。生命科学や認知科学の世界では、構成主義という立場がありまして。1980年代にはラジカル構成主義があって、僕たちが知覚している世界は全く客観的なものではなくて、主観的に構築されているものであるという議論が非常に大きな影響を社会システム論に与えている。今でいうと、研究者とか科学の分野ではこういう認識は常識なんですよね。もしかしたら芸術の分野でもそうなのかもしれないですけど。

しかし、このリアリティがアート・マーケットにはまだ反映されていないようにも思えます。僕たちはまだ天才的な、圧倒的な「バズる」ものを崇め奉る傾向がある。ただ、このことも「0」か「1」かではなくて、時々弱い自分がいて何かを崇め奉りたくなるんですよね。身を任せて圧倒されたいという宗教的な感覚なのかもしれないですけど。

でも、それと何かを作り出すことのリアリティは「脱神秘化」できるとも思っています。脱神秘化というとネガティブな印象を受ける人もいますが、そんなことはない。たとえば宮島さんの作品から僕がどんな影響を受けているのかというダイナミズムを、僕自身が気付けなかったりするんですよね。

それに気づけたら、すごく世界が豊かになると思うんです。だから、気づきを増やす技術にコミットするということは、すごく面白くやりがいのある仕事だなと思ってるんですよ。

マス化による芸術教育の削減が、思考とコミュニケーション手段を奪っている

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ドミニク:ところで、去年文科省が人文系のお金を減らしたということがニュースになりましたよね。結局、減らしたのか減らさなかったのかはよくわからなかったのですが。

宮島:どんどん減っていってますよ。中学・高校の美術の時間にしても、20年前、30年前に比べたら半分以下。

ドミニク:それと少し前に図画工作の時間がすごく削られたんですよね。

宮島:だから今、大学では美術教育とかデザイン教育は成り立たないんですよ。ほとんど何も学んでこれないから。先生が絵画の専門だったりすると彫刻的なことは教えられないので、時間も少ないからやらせないんですよ。そうすると、彫刻刀やナイフの使い方すらできなくて、そのまま美術の学校に来て大怪我しちゃうみたいなことがあるんですよね。

ドミニク:直感知をトークの途中におっしゃってましたが、同様に身体知的なものを学ぶカリキュラムもどんどん減っています。かわりに、英語とダンスは増えてるんですよね。英語を学ぶよりも、非言語ツールである図画工作をやったほうが一気に世界とコミュニケーションできると僕なんかは思うんですけどね。

宮島:17歳の高校生でしたかね、ネットで話題になってましたけど。英語の時間を増やすなら、ちゃんと自国語、つまり国語をちゃんとやらないと実は英語化ができないと言っている17歳がいてすごいなと思った。

確かに、メンタリティ的には日本語で考えているので、そういう構造で英語に訳さなくちゃいけないんで、日本語の構築が稚拙だと稚拙な英語しか話せないわけじゃない。内容が薄い。

菊池:そういった中で「何を話すのか」って内容がすごく重要だと思っています。トランスミッターのコミュニケーションの話になったら、ある意味コミュニケーションはできるけれど、きちっとした情報をきちっとトランスミットするためには、自分の中に落とし込む作業をした上で言語化しない限りなかなか。

宮島:だから単純な会話しか成り立たなくなっちゃって。「やあやあ今日は元気?」「元気だよ。今日はお天気がいいね。バイバイ、さようなら」みたいなことになって、コミュニケーションでもなんでもないだろうみたいな話だよね。

菊池:どうなのかなと思っていて。私、日本を長く離れていたじゃないですか。表面的な話で「日本ってね…」みたいなことを聞いて帰ってきたんです。けれども、例えばRelight Committeeの一人ひとりと話していると、かなりポテンシャルが高いですし、ものすごい力を持っているんですよ。ただ、マスになったときになんとなく力が弱っちゃう。

ドミニク:わかります。マス化しちゃいけないんですよね。

菊池:そうなんです。今回は本当にそれは思って。だからこそ、情報技術に期待しているところはあるし、逆にそこは危険な場所でもある。

ドミニク:両方ですね。

菊池:両側面を持っているからこそ、事を疑いながら解釈していくこと、物事を読み解くこと、ドミニクさんの言葉をお借りするとリテラシー力の強化、我々もしていかなければいけない。

自分事から発せられる熱量こそ大切

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ドミニク:先ほど宮島さんがおっしゃったことの中で、本当にそうだなと思ったのが、共感してもらうためのワードを考えてしまう、それってマス化だと思うんですよね。

出発地点がマスだと悪しきマス化だと思うのですが、ある種の狂気のように、誰にも説明できないようなものを葛藤しないのでそのまま出してしまっても伝わらないので、葛藤しながら社会情報化する、というのが順番だと思うんですよね。

自分自身、IAMASでも教えてるんですけど、早稲田大学でも今期だけ非常勤で教えていて毎週学生たちと話をしていて、心に決めていたことがあるんです。結果から言うと成功だったんですけど、まず座学は一切しない。僕から何か情報を教えることは一切しないようにする。時事ネタについて皆と喋るくらいはしますが。

何をやったかというと、とにかく自分事から発信してもらいたい。演習ゼミだったので、メディア論を勉強している子たちが何か新しいものを作るという、非常にざっくりとした課題だけ与えられて始めたんですね。最初の1ヶ月ほどやったのが、自分が抱えている日常的で他愛のないストレスやイライラを「ペイン」と呼んで、ひたすらメモり続けてそれを皆で発表して話し合うというもの。

その時点から面白かったのですが、「現代日本の社会問題は」みたいなペインには「それ、君の言葉じゃないでしょ」と言ってやりなおしてもらう。本当に他愛のない、日常のなかから掘りおこしてもらう。

すると「道端歩いててよく人とぶつかっちゃうのが嫌だ」というようなペインが上がってくるのですが、これってパッと言って意味がわからないじゃないですか。そのパッとわからないことをなんとか人に理解してもらおうということをやっていくと、不思議なことにどんどん「わかる!」という共感者たちが出てくる。それを小さい意味での社会システムの中で、それを回避したり別の形に変えるためのシステム的なプロポーザルを考えてくださいって言うと、めっちゃくちゃ面白いことがいっぱい出てくるんです。

この手法が面白いところは、全てその人の熱量から出てきているので、共有されていると何でもいいんですよね。これは表現活動にも当てはまるということを学生たちから教えてもらったなぁ、とリアルタイムで感じられて、自分自身もどれだけいろんな固定観念から自由たりえてるのかと問うきっかけになりました。でもこのことって、現代を生きる全員に関わってくる問題だと思うんですよね。

マス化によるクリエーターの疲弊、クオリティの課題

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宮島:これは一般の人たちだけにかぎらず、クリエイターとかアーティストも実はマスの情報に揺らされていて、自分が本当は何をしたらいいのかよくわからなくなってきているんですよ。

若いアーティストなんか特にそうですけど。こう言うスタイルで成功したって事例があるとするじゃないですか。そうすると、周りの人たちはそれ一辺倒になっちゃうんですよ。それがネットで拡散されるので、日本全国でそういう類似形ができるんですよ。

ドミニク:若いキュレーターの友達がいて、その人は音楽家とよく交流しているんですが、今の若い10代の音楽家の子達は、CDを売るのではなく全部自分の作った曲をネットで無料で公開するんですね。それでいっぱい聴いてもらってファンが増えたらライブに来てもらうってことをやっているんですけど、その子達が最近すごく疲弊しているって話をしているんです。

というのも、3日に1曲くらいのペースで発表し合っている。だからインフレが起こっちゃっている。「あいつが2日前に出したばっかりなのに、また新曲出した」みたいな。それで新曲を作るんだけど、果たしてそれでクオリティが上がっているかどうかと言うとなんとも言えないって結論なんですけど、それを見ていてすごく本末転倒だなと言うんです。

周囲に引きずられて、自分にインプットする時間が足りないって人も増えていますし、ゆっくり本を読んで考えることもできなくて、SNS上にぶら下がっている、覚えなければならない新しい用語を必死にGoogle検索やっているだけで情報が受肉化しないというか。

宮島:僕も反省していることがあって。最近、スマホをガラケーに変えたんですよ。意図的に。

ドミニク:それは面白いですね!どうですか、効果は?

宮島:効果は絶大ですよ。読書量が増えますよね。やっぱり、電車に乗ってる時にずっとスマホの画面見ている自分がいて、ハッと気づいて、これはダメだと思った。

ドミニク:宮島さんでも、電車の中でスマホをずっといじってるんですね。

宮島:そう。それでニュース見たり、ろくでもないブログ見たりするだけじゃない。

菊池:iPadは持ってるんですか?

宮島:iPadは仕事上仕方ないので。でも電車で立ち見できないじゃない、なかなか。だからちゃんと座った時にしかやらないというようにしてやったところ、絶大に気持ちが楽になりました。最近すごく批判を浴びているんですけど、時計も変えたんですよ。針が一つしかない、大枠しかわからない時計に。

ドミニク:つまり、解像度を落としているわけですね?

宮島:何時何分何秒みたいなことは一切わからないので、何時って聞かれても、「だいたい10時頃」って役に立たず怒られるんですけど、もうそれくらいでいいかな、みたいな。

アートは、ずっと過渡期、守るものではなく攻めるもの

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参加者A:宮島さんは、さきほど過渡期じゃないかとおっしゃっていましたけど、過渡期じゃなかった時ってあるんですか? すごい昔はもっとゆっくり動いてたとか?

宮島:良い質問というか、哲学的ですよね。まったくその通りで、過渡期じゃない時はないんですよね。ずーっと過渡期ですよね。今は情報的な過渡期で、前も同じだったけど、今も新しい状況でどんどん悩んでいる状況だと思います。

参加者B:皆さんに質問なんですけど、アートを守るためにどうしたらいいのか?

ドミニク:アートは守るもんじゃなくて、攻めるものだと思います。つまり、僕自身はアートも愛してるし、インターネット上の他愛もないコミュニケーションも愛していて、両方ともクリエーションだと思うんです。それをどう同じ次元で取り扱えるかを考えています。その質的な差異ももちろん大事なんですけど。

例えば、アートに触発されていいサービスが生まれた例としては、「ART+COM」というベルリンのメディア・アート集団が1990年代末にGoogle Earthっぽいをシステムを構築したんですね。それを見たエンジニアが後のGoogle Earthを作った。そこまでは幸せなんですが実はオチがあって、それを見たART+COMがGoogleを訴えてしまったんですね(笑)。

これは残念な結末なんですけど、そういう交流ってありうると思っていますし、ITの人たちがアートっていう言葉を使うことで、アートの力が弱るほどアートの世界が弱体化しているんだとしたら、それはそれで問題だと思うんですよね。

だから、本質が何なのかというところで希望を持っているのは、IAMASのような場所でメディア・アートを学んだ人が、必ずしも作家やアーティストとして生きなければならないという強迫観念を持たなくてもいいのかなと思っている。

素晴らしいアートを学生時代に学んで素晴らしい作家に出会えて、それを胸に新しい社会システムを作るとか、新しいコミュニケーションの方法を作ることができれば、それは素晴らしい循環だと思うんですよね。それと同時に、何をもってアートとするのかもそろそろ定義できたほうがいい。一般常識からは定義不能のものを、とりあえずアートとするのは絶対にアートの自律性を弱めている。その部分を何とかしたいなという思いはあります。

人間のあり方が、アートのあり方

参加者B:そうは言っても、ユーザーとか見てる立場の人は引っ張られちゃうと思うんです。簡単な方に行っちゃうというか。

ドミニク:IT業界で言われているアートを、一般のユーザーはどれだけ見ているんですかね。例えば、ウェブサービスもいわゆる理系のエンジニアだけじゃなくてアートの素養がある人も必要です。だから、そういうところにガチのアートの人が入り込んで、エンジニアたちに美術史の深遠さを教えてあげるくらいの勢いが生まれてもいいなとは思いますね。

宮島:そうですね。アート業界にいる人間としてよくそれは考えるんですけど、最近は別にいいかなぁって。それで潰れていくようなアートだったら別にいいかなぁって思ってますね。さっきも過渡期って話をしましたけど、1920年代もそういうムーブメントが起こったし、戦後すぐの時代も社会がぶっ潰れそうになってアートがダメになるって時期もあったし、繰り返しそういうことは言われてるんですよね。

だけど、やっぱり本質的なアートは残ってきたし、これからも残っていくんだろうと思うんですよ。問題はアートをどう守るかではなくて、人間をどうするか。そして、そのためにアートはどうあるべきかって話だと思うんですよ。今後の世界をどうしていくのか、そして人間をどう扱っていくのか。僕らはどうあるべきかって話から、今後のアートが紡ぎ出されていくのが正論のような気がしますけどね。

菊池:いろんな思いがあると思うのですが、カタカナの言葉って解釈の度合いがすごくあると思います。エンゲージド・アートという言葉も、それが人をどうアートと関わらせるか。コミュニティという言葉も千差万別じゃないですか。多分アートという言葉も同じですよね。なので、アートという名前の表面的なものを守ることではなくて、そこにいる人間、アーティストの話だと宮島さんのお話を聞いて改めて思いました。

自分自身がアートによって自分のアイデンティティというか、菊池宏子という人間ができてきた感覚があり、アートという言葉をなくさないために毎日一生懸命頑張っている側面があります。その中で、アートという言葉の定義は、時代や社会変化と共にどんどん変わり、対象も変わってくるだろうし市場も変わる。しかし日本に帰ってきて思ったのは、アート業界が自分たちの業界に対してすこし守りの体制にいることに違和感を感じ、業界自体が外の世界に向けて変わろうとする感じがあまり伝わってきません。

自分たちの環境を整備、守ろうとしつつも、時代の変容と共に起こるべきロビー活動も起きない。自分たちの活動基盤・市場を守ろうという姿勢があるようでない。とにかく、力を感じないな、というのは正直あります。それで、こういうプロジェクトに関わりながら、そうは言っても自分たちが関わっている業界だから、なんとかしなきゃという気持ちは常々あります。

今回、ドミニクさんのような方をお呼びした理由も、その一つだと思うんですよね。彼とお話をしていると、自らの専門性を高めながら、自分たちの働いている状況をよりよくするために活動なさっている気がします。そういう方とこうやってリアルなつながりをもち、バーチャルでは語りきれないものを話して何か次につなげる。これからも、業種やそれぞれの専門性を超えながらも、同じような価値観を持った方々と、どんどんいろんな話をしていかなきゃならないんだろうなってことをすごく思います。

肯定する力が増える素晴らしさ、熱量こそシェアしたい

参加者C:芸術の制作者と観察者の話で、今は観察者、ユーザー自体の存在が大きくなっている時代なのかなと思っています。一方で、それが行きすぎてしまうとアートの自立性の問題にもなってしまう。僕自身は、日常の生活を省みてもポジティブというか、みんなが気に入ったものをシェアしていくことで価値が発掘されていくプロセスが、アートと社会を考える上ですごく大事かなと思っていて。

中盤でご紹介いただいた『宝塔』って作品も、自分が作品に映ることでシェアされていくのも、ある種の参加の形だなと思ったりして、非常に象徴的だなと思いました。そういう意味で、今の時代にアートの観察者というか、それがテクノロジーによってどう変わるか、それでアートと社会の関係がどうなるのか、その辺りのテーマでご意見をいただけたらと思います。

ドミニク:シェアするというテーマで、Instagramでずっと自撮りしているお母さんの話をしましたけど、それとは別にして基本的に肯定する力が増えるってことは素晴らしいことだと思っています。Twitter上でも自分の好きな趣味のこととか活動のことをひたすら投稿していて、それが共感を得て広がっていくインターネットの力が炸裂している瞬間を見ると、感動します。

何かを否定する力よりも作る力の方が大事。だから、今日のようなクリティカルな話は楽屋話的に聞いていただきたくて。いわゆる、日常的なペインですね。そういうものを踏まえながら、「だったら自分はこれがいい」と思えるものをそれぞれが出していく。それは作品なのかもしれないし、活動なのかもしれないし、何か別のシステムなのかもしれない。

全体的に批評的に聞こえたかもしれないんですけど、僕は作る人と受け取る人の境界線がますます曖昧になっている今日の状況には基本的にすごく興奮していて、そこに渦巻く熱量を増幅していきたいなと思います。

菊池:私は、オノ・ヨーコさんの作品に影響を受けています。オノさんの作品でとても好きなところは、彼女は「Yesと言える人間になれ」といろんな作品で語っていて、政治的なことも含めて「〜反対!」というのは非常にもちやすいかもしれないのですが、何かに対して、自分の意義主張を宣言すること「〜賛成!」することの難しさ、覚悟、そしてそこに行き着くまでに思考、時間があるかと思います。

そこには、自分の知識なり情報を蓄積させますよね。今日のテーマでもあるように、人の行動のあり方として「Yes」と言える人、このプロジェクトにおいてはそこの部分を率先しながら継続できたらなと思っています。

大変申し訳ありませんが、時間がきてしまいましたので、これで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。