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真っ白なキャンバスに向かっても、ちゃんと筆が持てるように。

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金江理紗

1998年、兵庫県西宮市生まれ。物心がついた頃には絵筆を持ち、アクリル画を好んで描いていました。その後、自然な流れで愛知県のとある高校の美術科に進学し、純粋芸術からデザイン、現代アートまで幅広く学びました。最近は、ラジオCM制作や家具のデザインなど、あらゆる表現方法を実践的に試しながら制作活動を模索中。感覚的に捉えること、深く考えること、アイデアを発散すること、表現することが好きです。

 

「自分の表現に自信がない」

そう口にした瞬間、まるでダムが決壊したように、涙が溢れて止まらなくなった。

 


 

「私には何もない、何も表現できない」

高校3年生の時、毎晩のように「作れない」と泣いていたことを思い出した。

どれだけ考えても考えても、わたしから出てくるものに、何かを見出すことができなかった。言葉で説明しようとする度に、その薄っぺらさに気づき、愕然とした。

あの頃から、自分を表現することが怖くなった。

 

大学で専攻しているCMは、制作という意味では表現の一つといえるけれども、アートのように自分をさらけ出す必要もなく、根本的な考え方がアートとは違う(とわたしは考えている)。

クライアントの要望を汲み取る、社会が求めているものを見極める。その上でアイデアを出すというもの。相手がいて初めて成立する表現方法であり、どれだけその相手を納得させるかが、評価の決め手になる。

「自分」をさらけ出すことに対する抵抗感や恐怖心がある、その一方で、表現したいという思い。この2つの気持ちが揺れ動いた結果、アートを捨てて、わたしはそんなCMを選んだのだ。

 

この事実が、わたしを苦しませていることに、この一週間でようやく気づけた。

でも、アートを捨てることでしか精神を保つことができないほど、当時は思い詰めていたのだ。

 


 

アートを続ける自信がなかった。アートとずっと生きてきたのに。

 

アートが好きだ。でも、アートと生きてきた時間を、ぐちゃぐちゃに壊してしまいたい。

 

そんなわたしに、一体なにができるんだろう?

わたしの何もなさと、自分でも手に負えない大きな矛盾に、心が潰れてしまいそうだ。

 


 

「なんとかしたい、でもできない。」

3/7のタイムリミットで出た答えはこうだった。今のわたしの状況で、わたし自身から何かコトを起こすことはできそうにないということ。無理やり出してみた案は”妥協”の塊で、Actionとは到底呼べないものだった。何もかも、言い切ることができない。

表現者として生きてきながら、自分の表現に自信がないわたしのような人間に、

自分自身の問題に向き合うということ以上に、つらくて残酷なことはあるだろうか?

 

でも、向き合うべき時に向きわなければ、あとあと苦労することになる。

 

それを知っていながら、やはりわたしは逃げてばかりだ。逃げてしまう理由も、逃げるしかなかった理由も、何も残さないままに。

なんてわたしは弱い人間なんだろう。本当にありがたいことに、待ってくれている人がいる。そして、チャンスも与えられている。それなのに、どうしても「自分にしかできないことなんてない」と思ってしまうのだ。これでもかという自己肯定感のなさに、自分でも嫌気がさす。

 


 

そんなわたしに、今できること。

「Actionをやれなかった」わたしにできることは、いつかまた訪れるであろう”自分と向き合うとき”のために、今までの自分のことを整理して残しておくこと。これが現時点でのわたしの答えだ。

社会彫刻家になること、なろうとすることは、今は到底できない。

でも、Actionをしない選択をとったわたしを、自分自身で受け入れよう。そして、その上でRCを終えよう。そうしないことには、振り返ったときに絶対後悔するから。

 

 

・メンバーのActionを、お手伝いさせてもらう。一番近くで見させてもらう。

 

・現時点でのセルフアイデンティティを書き起こす。

・過去の作品を整理する(ポートフォリオに言葉を付け足したり、当時の心境を書いてみる 等)。

・自己紹介をするような心持ちで、自分のことを書いてみる。自分を肯定する練習をする。

 


 

RCは、ありのままのわたしを、優しく、強く、受け入れてくれる場所だった。

 

見守ってくれている、ちゃんと見てくれている、待ってくれているということが、

どれだけわたしを救ってくれたか。

 

飾ること、取り繕うことは、自分で自分を殺すことになる。

偽りのエゴを、相手に押し付けることになる。

 

だから、『謙虚に、正直であれ。』

 

この言葉を胸に刻んで、これからを生きていこう。