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芸術の賞味期限

──「修復」や「所有」から考える芸術の存在論

開催日:2013年8月8日(木)19:00~21:00
会場:東京文化発信プロジェクトROOM302
ゲスト:鷲田清一(せんだいメディアテーク館長/哲学者)
聞き手:宮島達男(美術家)

宮島 ルネサンス絵画や教会建築と比較して、現代アートの修復が取り沙汰される機会は多くありません。鷲田さんは過去に修復問題に関わった経験がおありだとか?

鷲田 大阪の千里ニュータウンには、1970年の大阪万博の時につくられた野外彫刻の多くが移転して置かれているんです。そのなかに風の彫刻で知られる新宮晋(しんぐう・すすむ)さんの金属彫刻があり、豊中市の倉庫に放って置かれていました。それを修復して大阪大学に設置しようと考えたのですが、設計図がどうしても見つからず、また一から制作するよりもはるかに修復費がかかるということで断念したことがあります。

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宮島 現代アートのアーティストは作る行為に主眼を置いていますから、作品を長く維持することを命題にしてないんですよね。ジャスパー・ジョーンズなんて、自分の作品は50年保てばいいと言い切っている。

鷲田 二つの問題がありますね。芸術作品にとって、時代を超えて保持されることは本質的か? そして、作品の保持・処分に関して誰が権利を持つか? 長らく芸術作品は永遠性を目指すと考えられてきましたが、現代アートの枠は絵画や彫刻という古典的ジャンルから大きく逸脱しています。
権利の問題も複雑です。かつては王様や貴族の私的な所有物だった美術品は、市民革命を経て公共的な文化財として認識されるようになりました。国や自治体の主導で、ある作品を未来に残すべきものと認定して美術館に収蔵する制度が確立された一方で、美術品を市場経済に属する一つの商品としてマーケット内で流通させるシステムもあり、美術品のとらえ方はじつに多様になりました。

宮島 現在はアーティストをみんなで支え合っているような感じが僕はします。一時的に国やコレクターが作品を所有したとしても、最終的には展覧会として大勢の人に届く。

鷲田 もっと直接的に、自分たちの作品として支えていくケースもありますか?

宮島 ロバート・スミッソンがユタ州の湖に作った《スパイラル・ジェティ》はその良い例ですね。デイア芸術財団の管理なのですが、痛みが激しく、市民が協働で保存運動を起こしました。現在は、寄付を募りながら維持しているようです。それから、今年20年に一度の式年遷宮を迎えた伊勢神宮も一般の人が関わりながら遷宮を進めていますね。西洋ではかたちを変えないことが永遠性の基準ですが、私たちの東洋的な考えでは、伊勢神宮のように全部作り替えてしまっても永遠性が残るととらえます。それはコンセプトを引き継いでいく現代アートの発想に近い。

鷲田 ある一つの作品が時代を超えて不変にあり続けるのではなく、ブリコラージュ的に編集し直して新しい造形を創出することで、心が引き継がれていくということですね。

宮島 時代に即した形でアート作品を活用していくことが重要です。そのいい例が、渋谷駅のコンコースにある岡本太郎の《明日の神話》。立ち止まって見る環境ではないけれど、大勢の人の目に触れることできる新しいリユースの方法が提示されています。福島の原発問題が起きて、Chim↑Pomが作品に介入したのも象徴的な出来事でした。アート作品はやっぱり「みんなのもの」という感じがしています。

鷲田 そこはとても悩ましい問題で、現代アートを「みんなのもの」と思ってくれる人が社会の中でマジョリティーではないんですよね。現代社会への違和感を表明したり、問題提起を行う現代アートは、数の論理に従えば淘汰されてしまう。でも、アートが提示するものは次の時代のハッピーな感覚を生み出していく可能性は大切にしたい。一方で、過去の美術史的な文脈の中で価値があるからなんとしても保存すべきだ、という発想にも抵抗を覚えます。

宮島 同時に問題になるのは、その判断は誰がするのかということです。

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鷲田 作り手と受け手の両方だと思います。民俗学者の宮本常一が書いた『庶民の発見』の中で、石垣職人が一分の狂いもなく正確に作られた石垣を見ると身が引き締まる、という話を紹介しています。良い仕事が残る場所では、未来の職人も丁寧な仕事を心がける。職人たちの中で貫通する過去と未来の想いが、保存・維持を継続する理由になるわけです。
一方、受け手側はどうでしょう。特に現代アートは、一部の人しか作品のすごさを受け止めることができないケースが多いと思います。そこで重要になるのは、心を揺さぶられた人が作品の魅力を他の人たちに訴えていくことです。直接作品に触れてこなかった人の心まで、その輪を広げていけるような。

宮島 それは日本人には少し難しいかもしれません。海外のオーディエンスのように、自分の想いを情熱的に訴えられる人がもっと増えてくれれば、議論も生まれてくるかもしれない。

鷲田―日本と海外ではパブリックの概念が違いますからね。西欧の人たちは家の中でも靴を履いていますよね。彼らにとっては寝室だけがプライベートな空間で、それ以外は自分の家であっても公的な場所なんです。個人の空間が制限されているからこそ、個人の意識を大切にし、社会に対する意識も強く持っている。一方、日本は風呂上がりのお父さんがステテコ姿で居間でくつろいでいるように、家以外の場所がパブリックというとらえ方ですから、西欧と比べると社会に対する関係が曖昧です。ですから、社会の共有財産であるアートを守ろうという意識も日本ではかたちになりづらい。

宮島 日本のなかで、公共に対する意識を高めていくのは難しいでしょうか?

鷲田 インターネットの普及やシェアカルチャーの登場で変わりつつあるのではないでしょうか。アートの周辺にしても、アーティストが町おこしや復興支援を通じて新しいコミュニティー形成に加わる事例が増えています。一過性のイベントに参加するのではなく、もっと根本的なレベルでの社会の構造変換に、アートは大きな役割を担うことができる。
社会的な物事を解決する時に一番必要なものは、やはりアートだと思う。これは理屈ではなく直感で確信しています。

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2013年7月11日
東京文化発信プロジェクトROOM302(東京)で収録

鷲田清一(わしだ・きよかず)
1949年京都市生まれ。大阪大総長をへて、現在、大谷大教授およびせんだいメディアテーク(http://www.smt.jp)館長。専攻は、臨床哲学・倫理学。現象学・身体論を専門とし、ファッション研究なども行う。著書『分散する理性』『モードの迷宮』(1989)でサントリー学芸賞、『「聴く」ことの力』(2000)で第3回桑原武夫学芸賞、『「ぐずぐず」の理由』(2012)で第63回読売文学賞評論・伝記賞をそれぞれ受賞。

宮島達男(みやじま・たつお)
美術家。1986年東京芸術大学大学院修了。88年〈ヴェネツィア・ビエンナーレ〉新人部門に招待され、デジタル数字の作品で国際的に注目を集める。以来、国内外で数多くの展覧会を開催。代表作に《メガ・デス》など。また、被爆した柿の木2世を世界の子どもたちに育ててもらう活動、〈時の蘇生・柿の木プロジェクト〉も推進している。